何故エスを忌み嫌う私がALTER EGOのアップデートによって救われるのか

 

もうすぐ『ALTER EGO』のアップデートが行われる。

私はそれを待ち望んでいる。

私の忌み嫌う『エス』は拡張されることで再び私に愛される『エス』になるからだ。

 

 

上記の不可解な文章の説明する前にいくつか話をしておかなければならないことがある。

それは『エス』とはなんなのか? ということ。そして『ALTER EGO』という衝動と抑圧に包まれた世界の解体だ。この二つなくして、私は冒頭の言葉をうまく説明することが出来ない。

 

 

ALTER EGOフロイト精神分析の因果関係について

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ALTER EGO』には三人のキャラクターが登場する。規範を重んじる『エゴ王』、自分が何者であるかを探す女性『エス』、そしてプレイヤーの分身である『旅人』の三人だ。

ALTER EGO』はゲーム開始時にジークムント・フロイトの言葉が流れることからも分かる通り、フロイト精神分析に傾倒した作品である。

フロイトは著書『自我とエス』において人間の心が『超自我』『自我』『エス』の三つの心的機能から成るという見解を提示したが、それはそのまま上記の三人のキャラクターの関係性に当てはめることが出来る。

『エゴ王』は『超自我』、『旅人』は『自我』、そして『エス』はそのまま『エス』である。

(以下、非常にややこしくなるのでALTER EGOに登場するキャラクターを『エス』。フロイト精神分析の用語を『Es』と表記させて頂く)

 

 エゴ王(超自我

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『エゴ王』に当てはめることが出来る『超自我』をフロイトは両親の道徳観を持った自我を監視する存在だと説明している。『ALTER EGO』に登場する作品を例に挙げて説明するならば『デミアン』における主人公が父のいる”明るい世界”を肯定しそれ以外の世界を悪いものとして扱う様は父の道徳観の現れであり『超自我』に支配された姿だといえる。

ALTER EGO』の世界においても『自我(旅人)』を監視し、規範に”従わせようとするその姿”はフロイトの提唱する『超自我』の姿そのものであるといえる。

 

エス(Es)

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エス』に相当する『Es』のフロイト的見解を要約すると『論理性を欠き、社会性及び現実原則を無視し、本能的快感にのみ従う存在』だとしている。

旅人と出会ったばかりの社会性の欠如した非人間的振る舞いやIDエンドにおける錯乱したかのように見えるエスの姿は『Es』本来の役割に順じた姿に過ぎないというわけである。

またフロイトは『わたしたちは、自我機構を介してしか、エスを体験することはできない』と述べており、作中においてエゴ王(超自我)が旅人(自我)に対して「エスに気をつけろ」と言葉での警告に留まっているのは、自らがエスに対して干渉することが出来ないことの現れであるといえる。

 

 

 

旅人(自我)

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『旅人』に当てはめた『自我』をフロイトは『外界の直接の影響によって変化したエスの部分である』としている。続けて『一方でエスの意図を有効に発揮させようとすると同時に、他方で外界の影響、とくに現実原則に従属させようとする』と述べている。

上記の自我の役割は作中における旅人の役割そのものである。我々はALTER EGOという旅路においてエス超自我に抑圧されるでも、Esに帰属するでもない中庸の道すなわち現実原則に従属させようとしてきたわけである。

 

 

これは一体、誰のEGOなのだろうか?

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ここまでフロイト精神分析における三つの心的機能が『ALTER EGO』に登場する三人のキャラクターたちにいかにして当てはまるかという話をした。上記の説明を読んで、おおよそ納得してくれたとは思う。

ここで一つの疑問が生まれる。『エゴ王』『エス』『旅人』がそれぞれ『超自我』『Es』『自我』に相当するというのなら、それはいったい誰のものなのか? という問いである。

この問いの最も美しい答えは『皆、それぞれの中に眠る『エゴ王』であり、それぞれの『エス』である』というものだろう。その答えは確かに酷く魅力的に映るが、残念ながら真実ではない。興ざめするようだが『ALTER EGO』における『エス』が誰の『Es』か? と問われればそれは当然製作者のものに他ならない。つまるところ『エス』とは『ALTER EGO』のテキストを綴っている大野真樹の『Es』に過ぎない。

 

この答は大人げないだろうか?

ゲームをゲームとして楽しむことが出来ないつまらない大人の空想の余地を持たない発言だろうか?

 

私はそうは思わない。 なぜなら『エス』が大野真樹の『Es』であるのは作中の話に過ぎないからだ。ゲームにはいつだって終わりがある。ゲーム中に記述されたテキストもまた有限である。旅人が超自我の監視から解放され、『エス』もまた外界に順応出来たとき、その『エス』は皆それぞれの心の中にある『Es』である。それ以上ゲームに続きがない以上、その先をどう紡ぐかはそれぞれに一任されているからだ。一緒に花見をするのも、高尾山に登らせるのも、全てそれぞれの自由である。

 

 

それは『エス』を愛する多くの旅人にとって非常に望ましいことのように思える。

しかし、私には耐え難かった。

なぜなら私にとってこの世で最も忌み嫌う存在が私自身に他ならないからだ。

 そうして『ALTER EGO』の世界がフロイト精神分析によって成り立っている限り、『エス』とは外界によって変化する前の私であり、この世で最も忌み嫌う私の一部分であることを否定することが出来ないからだ。

この事実に気が付いてから『エス』に対する見方ががらり変わった。この世で最も愛する存在がこの世で最も醜悪な存在の一部だったのだから。

 

 

それから私は何度も『エス』との関係を躊躇いもなくリセットした。その行為自体は無意味ではない。ドグラマグラというこのゲームのエンドコンテンツを進める上でそれは意味のある行為だった。けれども、ただ漠然とゲーム内の『エス』を愛していた頃の私にはやろうと思っても出来ない行為だった。理由など後で取って付けたようなもので、それは一種の自傷行為に他ならなかった。

だから私にとって『ALTER EGO』の追加シナリオという存在は救いだった。

ゲームに続きが生まれれば、私の『Es』と成り下がってしまった『エス』は大野真樹の『Es』として再びゲームの中を闊歩し始めるからだ。

 

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一人の女性の自我を奪うことが倫理的に許されないのは当然として、

一体誰が自分自身の一部を自らの意志で切除することについて糾弾出来るだろうか。

 

 

 

 

 

残念ながら私は未だ私を許すことが出来ないし、それは今後変わることがないだろう。だから私は物語に逃げ込む。誰かの記述したテキストに。自らの『Es』から目を背けて、誰かの創作した『エス』を眺める。

  

もうすぐ『ALTER EGO』のアップデートが行われる。

私はそれを待ち望んでいる。

私の忌み嫌う『エス』は拡張されることで再び私に愛される『エス』になるからだ。