アーサーが死に、ジョーカーが生まれ、そして狂気のヴィランであるジョーカーは死んだ。

 

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世間のムーヴメントからは若干遅ればせながらも『ジョーカー』を観てきた。

純粋に、良い映画だったと思う。少なくとも公開後数日間オタク達がSNSで騒いでいた『これは危険な映画だ』というような空気は作品からは感じられなかった。いつだってオタクは作品への熱意を良くも悪くも過剰に吹聴して回るものだ。

しかしながら世間のオタク達が「危険な映画だ」と感じたことも、そして僕が感じなかったことも結局の所「主観」に寄るものでしかない。

そう、これこそが本作のテーマだ。誰がなんと思おうと自分の人生を喜劇だと思ったのであればそれは自分にとって喜劇だし、悲劇だと思ったら悲劇なのだ。誰が何と言おうと関係はない。他人の言葉や定型文を用いて自己を表現したり、作品への感想を安直に述べがちな今にむしろ必要な映画だったと僕は思う。

そういう意味ではやはり良い映画だった。そういう意味では。

 

 

 

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本作は主人公である売れない芸人志望のピエロ、アーサー・フレックがいかにして狂気のヴィランであるジョーカーになったのかという過程を描く作品である。

二時間という尺をかけて、アーサーは様々な物に裏切られていく。同僚のピエロ、世間、社会、母親、空想上の恋人、枚挙にいとまがない程だ。

しかしながら作中においてアーサーは否定されるだけではない。肯定された瞬間もある。ピエロ姿で三人の裕福層の会社員を地下鉄で射殺したときだ。

このとき、ゴッサムシティの貧困層はこのピエロ姿の殺人者をヒーローだと祀り上げた。それは、何をやってもダメな芸人のアーサーが初めて世間に”ウケた”瞬間だった。

この 素顔のアーサーとしての失墜と、ピエロ男としての成功体験がアーサーをジョーカーへと変える。

その後ジョーカーとなったアーサーは殺人を重ねる。生放送のテレビカメラの前で。何故か? それが”ウケる”からだ。

 

 

 

 

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僕はDCコミックスの世界に詳しいわけではないので、このジョーカーと『ダークナイト』等に登場するジョーカーが地続きのものなのかは分からない。

仮に違う世界線のジョーカーだとしよう。それでも、僕の『主観』から見ればそれはほぼ同じようなものだ。それが別の世界線のジョーカーだとしても、そのジョーカーにも似たような悲劇が、そして喜劇が用意されていたのだろうと考えてしまうからだ。

ダークナイト』においてもジョーカーはカメラの前で殺人を行ってみせる。その動機を推察することは当時は出来なかった。だからこそ彼は『狂気のヴィラン』であり最高にクールだった。

しかし、今では透けるようにそれが見えてしまう。その方が”ウケる”からだ。当時は貧困層のヒーローだった彼は今や、売れない一発屋芸人の様相をしていた。

 

この時点で狂気のヴィランであるジョーカーは死んだ、完全に。 

結局の所、ピエロの素顔なんてものは暴くべきではないのだ。この映画は破天荒を売りにしている芸人が「実は良い人」であることを暴露する悪質なテレビ番組のようなものだ。

 

 

 

映画『ジョーカー』は間違いなく成功するだろう。けれどその陰に素顔を白日の下に晒された一人のヴィランがいたことを忘れてはならない。

まあ、これも僕の『主観』に基づく感想に過ぎないのだけれど。