The Last of Usと僕の関係は「Not for me」に帰結するはずだった。しかしたった一つの要素がその評価を180度変えた

 

 

本記事はネタバレを含みます。現在PlayStation Plusに入会していると100円で買えるのでとりあえず買って遊べ。話はそれからだ。

 

 

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ゲームの評価は単純な様で難しい。

勿論、自分が実際に遊んで面白かったという場合には簡単だ。そのゲームはそのまま高評価を付ければいい。仮に世間がそのゲームを評価していなくてもだ。そこで自分の意見を曲げる必要はない。

問題は実際に遊んで面白くなかった場合だ。そのゲームが単純につまらなければクソゲーの烙印を押しても構わないだろう。しかし、数多くのゲームを遊んでいると『自分は面白いと感じなかったが、別の層には需要があるのだろう』という感覚を覚えることがある。その場合、自分が楽しめなかったからといえ安易に「クソゲー」と評するのはゲームに対して失礼に値するように僕は思う。

そんなとき便利な言葉がある。「Not for me(私向けではない)」だ。

The Last of Us」は僕にとって正しく「Not for me」となるはずだった。しかし、たった一つの要素が僕にとってのこのゲームの評価を著しく高めた。

 

本記事では「The Last of Us」が何を持って自分に合わないと判断したのか。そして最終的に何故評価が変わったのかを順を追って説明する。

 

 

 

 

 

ゾンビもホラーも銃も好きじゃない

 

The Last of Us』はサバイバルホラーだ。

原因不明の病原菌により世界中にゾンビが溢れかえった世界で一部の生存者が軍の管理する「隔離地域」で貧しくも生きながらえている世界。

そんな中主人公の「ジョエル」は病原菌に対する抗体を持つ少女「エリー」を「ファイアフライ」というレジスタンスの運営する研究所まで届けることになる。

 

 旅の最中、「ジョエル」と「エリー」は「感染者」や「略奪者」と戦闘をすることになる。特に感染の進んだ「クリッカー」と呼ばれる敵との戦いは緊張感を孕んだものになる。視力を失った代わりに発達した聴力と戦闘力を持つ彼らと真っ向から戦うのは得策とは言えず、必然的に彼らの傍を息を殺して通り抜けるはめになる。

 

 『The Last of Us』はサバイバルホラーを謳っているものの、ホラー要素を全面的に押し出した作品ではない。突然ゾンビが飛び出してくるような演出も殆どなければ、感染者との戦闘も突如始まるわけではなく、プレイヤーの心構えが出来るようにきちんと前触れがあるようになっている。

それでもホラーが苦手な僕にとって「クリッカー」との戦闘はストレスの溜まる一方だったし、このゲームの戦闘方式がそれに拍車をかけた。 『The Last of Us』はTPS形式のゲームである。自慢ではないが僕はこのゲームタイプが大の苦手だ。『PUBG』や『Fortnite』といったTPSのバトロワ系のゲームでキッズからボコボコにされ続けた僕は一人用の本作になっても感染者や略奪者に殺され続けた。その数は優に三桁を超えるだろう。

これは僕の肝っ玉が小さく、僕のゲームスキルが低いことが原因だ。

しかしながら、そうとは分かっていてもこのゲームを楽しみ切れなかったことは事実に他ならない。

 

 

 

 

 

 

子供がいないどころか最愛の人間も存在しない

 

これは僕個人の話になるのだけれど、幸か不幸か僕には愛すべき子供どころか最愛の恋人も存在しない。親とも疎遠になってから長く、作中のような形で命を落としても悲しむことはないだろう。

 

The Last of Us』は人間の人間に対する深い愛の物語である。

主人公の「ジョエル」から娘の「サラ」へと向けられる愛。その愛は長い旅を通じて「エリー」へと向けられることになる。

旅の最中に出会う黒人の兄弟である「ヘンリー」と「サム」の兄弟愛。

「エリー」を親のような立場で愛しながらも、世界を救うために命を奪うことを決意する「マーリーン」の人類への愛。

 

死がそこら中で手を招く崩壊した世界で、愛だけを原動力に進む人間達が交錯する物語が『The Last of Us』である。前述した通り愛すべき人間がいない僕は、そんなシナリオに共感を覚えられるはずがなかった。しかしながら、このゲームがどこかの誰かにとって深い共感を与え、最高のゲームとして評価する瞬間はハッキリと思い浮かべることが出来た。この記事の冒頭で書いたように、正しく僕とこのゲームの関係は「Not for me」として終わりを迎えるはずだった。

 

 

 

 

レンズ越しの視線が僕とジョエルの気持ちを一つにした

 

 

 『The Last of Us』には他のゲーム作品と一線を画したシステムがある。フォトモードだ。

このモードは単にPS4のShereボタンでゲーム画面のスクショを撮ることから更に一歩踏み込んだシステムだ。このモードではカメラワークのみならず、ピントをどこに合わせるかや、色彩の調整、キャラクターの非表示など、かなり細部の拘って写真を撮ることが出来る。

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この機能があること自体は知っていたが、物語の終盤になって初めて僕はこの機能を使って写真を撮る気になった。

何故だろう? その時は全く気が付かなかったが後にその時撮った写真を見返して思ったことがある。この旅の最後と言っても過言ではないこのソルトレイクシティのステージは今までになく奇麗な青空が広がっているのだ。

 

 

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 まあ理由なんてどうでもいい。

とにかく僕はこの旅の終わり――ファイヤフライのアジトの前で「エリー」に向けてファインダーを切り続けた。

 

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何回も。

 

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何回も。

 

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何回も。

 

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何回も。

 

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何回も。

 

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何回も。

 

まるでその先にある別れを知っているかのように。

 

その後の展開はゲームをプレイした皆さんならお分かりだろう。

ファイアフライ」は病原菌への抗体を持っていた「エリー」がその命を犠牲にすれば世界を救えると「ジョエル」に説明する。

しかし、それを「ジョエル」は許さなかった。世界を救おうとする「ファイアフライ」を皆殺しにした「ジョエル」は「エリー」を救い出し、帰路に着く。それは今までの旅路において「略奪者」を正当防衛として殺害してきたのとはわけが違った。「ジョエル」が殺したのは世界を救おうとする善人達であり、そしてこの世界に生存してる全ての人間達だった。

このエンドを快く思わない人も多かっただろう。僕も普段なら一切納得が行かなかったように思う。

しかしこのとき僕と「ジョエル」の気持ちは同じだった。ファイアフライのアジトに向かう道中、レンズ越しに見続けた「エリー」に僕は父親が娘に対して覚える愛情に近い感情が芽生え始めていた。それは一年近くになる長い旅路をかけて「ジョエル」が「エリー」に対して抱いた感情と同一種の物だったと思う。

 

 

 

 

 The Last of Usと僕の関係は「Not for me」に帰結するはずだった。しかしたった一つの要素がその評価を180度変えた。

 カメラモードという要素を開発者が何を考えて導入したのかは知らない。恐らく作品への没入度に一切関係がないような意図だろう。

 けれど僕は、このゲームに満点に限りなく近い点数を与えたい。

 それは何故か? このゲームは愛によって紡がれた作品であり、このゲームはその愛に僕を共感させることに成功したからである。

 

 

 

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