『Life is Strange:Before the Storm』は何一つ変えることの出来ない退屈な物語だった。けれど、そうでなくてはならない。

 

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もうすぐ『Life is Strange2』の日本語訳版が実装されることもあり、発売前の予約版を買ったにも関わらず放置していた『Life is Strange:Before the Storm』をクリアした。

 端的に言って「非常に残念なゲーム」だった。本稿では『Life is Strange』及び『Life is Strange:Before the Storm』のネタバレを含みながら、本作が何故残念なのかということについて今更ながら語っていければと思う。

 

 

以下、面倒なので『Life is Strange』はそのまま『Life is Strange』と表記し『Life is Strange:Before the Storm』は『Before the Storm』と略させて頂きます。よろしく。

 

『Life is Strange』という雷の轟くような奇譚に満ちた物語

 

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『Before the Storm』の話をする前に前作である『Life is Strange』の話をしたいように思う。

『Life is Strange』が我々に与えたのは非常に優れたゲーム体験だった。故郷アルカディアベイに久々に戻ってきた主人公マックスは時間を戻す力を得たことで元親友だったクロエとの友情を取り戻しながら平和な田舎町に暗躍する殺人事件の真相を暴いていく。というのが前作の主なあらすじである。

マックスは時を戻すことで目の前で起こった不幸などからあらゆる人々を救うことが出来る。これは「現実」として考えれば途方もない能力だが「ゲーム」として捉えた場合には至って普遍的なことである。我々がゲームをプレイする際に度々用いる「気に入らない結果を招いたからリセットする」という行為はこのマックスが得た力と非常に近似している。

だからこそ「この能力が使えなくなる=ゲームとして当たり前の機能を封じられる」ときに我々は酷く動揺させられることになる。それまで全体重を預けていたゲームのルールが瓦解するからだ。プレイ済みの皆様ならなんのことかお分かりのことの様に思う。同級生のケイトの自殺を説得するシーンだ。

 

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この時マックスの能力はオーバーヒートしており使うことが出来ない。彼女の死に直接関与するやり取りはやり直すことが出来ず、物語の本筋と直接的に関係のないケイトはプレイヤーの選択によって生きもすれば死ぬこともある。

勿論、論理的な思考でこの事象を捉えた場合、これは普段のゲーム体験と一切変わらないものである。「ゲームに内包されたリセット機能」を使えないからとはいえ、気に入らない結果に陥った際にPS4の電源を切ることは尚も可能だ。

それでも「今まで全ての不幸をやり直して救ってきた」プレイヤーからすれば、単なるゲームキャラの生き死によりも一段高いディテールを持ってこの説得の場を体験することになるのは間違いない。

 物語のラストにおける「クロエを救うか? アルカディアベイを救うか?」という究極の二択にも同じことがいえる。このゲームに両方を救うような第三のハッピーエンドが存在しないのは、今まで全てを救ってきたマックスの行為への対比だと取ることが可能だろう。

 そうした云わば「緩急の付け方」とでもいうもので我々を魅了し素晴らしいゲーム体験を与えてくれたのが『Life is Strange』だったというわけである。

前作について語りきったところで、ここから漸く本題である『Before the Storm』についての話を始めたいと思う。

 

 

 

 

 『Before the Storm』という何一つ変えることの出来ない物語

 

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前の項で『Life is Strange』は「緩急の付け方が素晴らしいゲームである」と述べた。

同じ文脈で『Before the Storm』を語るのであればこうなるだろう。「平坦で面白みに欠けるゲームである」と。

 『Before the Storm』は『Life is Strange』以前の物語を描いた作品である。『Life is Strange』において物語を始動させる舞台装置として殺人事件の被害者となったレイチェル・アンバーとクロエの友情を描くマックス不在の本作は前作のように時を戻す力など誰も持ち合わせていない。

となれば私が前項で述べた『Life is Strange』のゲーム体験における素晴らしさは一切引き継がれていないことになる。

しかしながら、本作がやる価値の一切ないクソゲーである。ということは全くない。

本作よりも時系列が進んでいる前作ではリーダー格の存在として幅を利かせているネイサンがラグビー部に虐められていたり、本当に嫌な女だったビクトリアの意外な一面が見れたりと(本作でも勿論嫌な女なのだが)前作では見られなかったキャラクターの側面には一見の価値がある。

その中でも特に急遽舞台に立たされることになったクロエと、レイチェルが仕掛ける即興芝居のシーンは群を抜いて素晴らしい。

普段素直になれない二人がアドリブで本音を語り合い、友達としての関係がそれ以上のものになっていく様は必見である。

このように 『Before the Storm』は少なくともファンディスクとしては魅了に満ち溢れているし、シナリオ構成としても悪くはない。それでもこの作品が終始退屈だと感じてしまうのはこの作品が『Life is Strange』の続編だからだろう。

しかし、本作はそれでいい。そうならざるを得なかった。というべきだろうか。

そのことについて話す前に『Before the Storm』においてもう一つ語っておきたいシーンがある。傷心状態のレイチェルがクロエと星の話をするシーンである。

 

 

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ここでいう「星の話」は穿った見方をせずとも『Life is Strange』というゲーム作品におけるレイチェルの存在そのものを指してるといって間違いないだろう。

本稿の序盤でも語ったが『Life is Strange』におけるレイチェルの存在は単なる舞台装置でしかない。我々にとってレイチェルという存在はすでに死んだ存在であり 『Before the Storm』におけるレイチェルはすでに消滅した恒星の残り香のように放たれた光の名残でしかない。

このシーンはレイチェルという矛盾を抱えた存在と、そしてその関係性にスポットを当てた『Before the Storm』というゲームに対して真っ向から向き合おうとするDeck Nine Gamesの真摯な態度が伺える。

そしてこのまま、物語は進行しレイチェルという存在は『Life is Strange』という物語が進行するための舞台装置として事件に巻き込まれたことを示唆する後味の悪いシーンで幕を閉じることになる。

『Life is Strange』はそれ単体で見れば非行少女のクロエが旧友であるマックスとの友情を取り戻し、本来の自分に還る物語に他ならない。

しかし『Before the Storm』をプレイするとそれが間違いであることが分かる。クロエはすでにレイチェルとの友情の中で本来の自分へと還る道を見出していた。もし仮にレイチェルが死ぬようなことがなければ「裏切者のマックス」と旧交を温めることもなかっただろう。

本作はその「仮に」を許容出来る作品だった。レイ・ブラッドベリの『雷の轟くような音』において「一匹の蝶の死」が世界の成り立ちに多大な影響を与えたのと同じように「一匹の蝶の生」もまた後の世に多大な影響を与えるだろう。そうして『Life is Strange』というゲームの内容も結末も大きく変わったような物語の終わりを用意することも可能なはずだった。

けれどDeck Nine Gamesはそれを選ばなかった。何故なら『Life is Strange』というゲームの本質的な面白さを自認していたからである。

前述した通り『Life is Strange』の面白さはその緩急の付け方にある。そしてその緩急は「全てのものを救える全能者」としての瞬間と「等身大の自分としてしか向き合えない無能者」としての瞬間との落差によって担保されている。

そして『Before the Storm』が仮にレイチェルの死を取り除くような結末を描いた場合、そのバランスは崩れてしまう。それは『Life is Strange』において意地でも実装しなかった第三のハッピーエンドルートに他ならないからだ。

 

そうしてレイチェルは物語の生贄となって死に、『Before the Storm』は『Life is Strange』というゲームの犠牲になって死んだ。悲しいことだ。けれど、本作はそうでなくてはならない。