The Last of Usと僕の関係は「Not for me」に帰結するはずだった。しかしたった一つの要素がその評価を180度変えた

 

 

本記事はネタバレを含みます。現在PlayStation Plusに入会していると100円で買えるのでとりあえず買って遊べ。話はそれからだ。

 

 

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ゲームの評価は単純な様で難しい。

勿論、自分が実際に遊んで面白かったという場合には簡単だ。そのゲームはそのまま高評価を付ければいい。仮に世間がそのゲームを評価していなくてもだ。そこで自分の意見を曲げる必要はない。

問題は実際に遊んで面白くなかった場合だ。そのゲームが単純につまらなければクソゲーの烙印を押しても構わないだろう。しかし、数多くのゲームを遊んでいると『自分は面白いと感じなかったが、別の層には需要があるのだろう』という感覚を覚えることがある。その場合、自分が楽しめなかったからといえ安易に「クソゲー」と評するのはゲームに対して失礼に値するように僕は思う。

そんなとき便利な言葉がある。「Not for me(私向けではない)」だ。

The Last of Us」は僕にとって正しく「Not for me」となるはずだった。しかし、たった一つの要素が僕にとってのこのゲームの評価を著しく高めた。

 

本記事では「The Last of Us」が何を持って自分に合わないと判断したのか。そして最終的に何故評価が変わったのかを順を追って説明する。

 

 

 

 

 

ゾンビもホラーも銃も好きじゃない

 

The Last of Us』はサバイバルホラーだ。

原因不明の病原菌により世界中にゾンビが溢れかえった世界で一部の生存者が軍の管理する「隔離地域」で貧しくも生きながらえている世界。

そんな中主人公の「ジョエル」は病原菌に対する抗体を持つ少女「エリー」を「ファイアフライ」というレジスタンスの運営する研究所まで届けることになる。

 

 旅の最中、「ジョエル」と「エリー」は「感染者」や「略奪者」と戦闘をすることになる。特に感染の進んだ「クリッカー」と呼ばれる敵との戦いは緊張感を孕んだものになる。視力を失った代わりに発達した聴力と戦闘力を持つ彼らと真っ向から戦うのは得策とは言えず、必然的に彼らの傍を息を殺して通り抜けるはめになる。

 

 『The Last of Us』はサバイバルホラーを謳っているものの、ホラー要素を全面的に押し出した作品ではない。突然ゾンビが飛び出してくるような演出も殆どなければ、感染者との戦闘も突如始まるわけではなく、プレイヤーの心構えが出来るようにきちんと前触れがあるようになっている。

それでもホラーが苦手な僕にとって「クリッカー」との戦闘はストレスの溜まる一方だったし、このゲームの戦闘方式がそれに拍車をかけた。 『The Last of Us』はTPS形式のゲームである。自慢ではないが僕はこのゲームタイプが大の苦手だ。『PUBG』や『Fortnite』といったTPSのバトロワ系のゲームでキッズからボコボコにされ続けた僕は一人用の本作になっても感染者や略奪者に殺され続けた。その数は優に三桁を超えるだろう。

これは僕の肝っ玉が小さく、僕のゲームスキルが低いことが原因だ。

しかしながら、そうとは分かっていてもこのゲームを楽しみ切れなかったことは事実に他ならない。

 

 

 

 

 

 

子供がいないどころか最愛の人間も存在しない

 

これは僕個人の話になるのだけれど、幸か不幸か僕には愛すべき子供どころか最愛の恋人も存在しない。親とも疎遠になってから長く、作中のような形で命を落としても悲しむことはないだろう。

 

The Last of Us』は人間の人間に対する深い愛の物語である。

主人公の「ジョエル」から娘の「サラ」へと向けられる愛。その愛は長い旅を通じて「エリー」へと向けられることになる。

旅の最中に出会う黒人の兄弟である「ヘンリー」と「サム」の兄弟愛。

「エリー」を親のような立場で愛しながらも、世界を救うために命を奪うことを決意する「マーリーン」の人類への愛。

 

死がそこら中で手を招く崩壊した世界で、愛だけを原動力に進む人間達が交錯する物語が『The Last of Us』である。前述した通り愛すべき人間がいない僕は、そんなシナリオに共感を覚えられるはずがなかった。しかしながら、このゲームがどこかの誰かにとって深い共感を与え、最高のゲームとして評価する瞬間はハッキリと思い浮かべることが出来た。この記事の冒頭で書いたように、正しく僕とこのゲームの関係は「Not for me」として終わりを迎えるはずだった。

 

 

 

 

レンズ越しの視線が僕とジョエルの気持ちを一つにした

 

 

 『The Last of Us』には他のゲーム作品と一線を画したシステムがある。フォトモードだ。

このモードは単にPS4のShereボタンでゲーム画面のスクショを撮ることから更に一歩踏み込んだシステムだ。このモードではカメラワークのみならず、ピントをどこに合わせるかや、色彩の調整、キャラクターの非表示など、かなり細部の拘って写真を撮ることが出来る。

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この機能があること自体は知っていたが、物語の終盤になって初めて僕はこの機能を使って写真を撮る気になった。

何故だろう? その時は全く気が付かなかったが後にその時撮った写真を見返して思ったことがある。この旅の最後と言っても過言ではないこのソルトレイクシティのステージは今までになく奇麗な青空が広がっているのだ。

 

 

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 まあ理由なんてどうでもいい。

とにかく僕はこの旅の終わり――ファイヤフライのアジトの前で「エリー」に向けてファインダーを切り続けた。

 

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何回も。

 

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何回も。

 

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何回も。

 

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何回も。

 

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何回も。

 

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何回も。

 

まるでその先にある別れを知っているかのように。

 

その後の展開はゲームをプレイした皆さんならお分かりだろう。

ファイアフライ」は病原菌への抗体を持っていた「エリー」がその命を犠牲にすれば世界を救えると「ジョエル」に説明する。

しかし、それを「ジョエル」は許さなかった。世界を救おうとする「ファイアフライ」を皆殺しにした「ジョエル」は「エリー」を救い出し、帰路に着く。それは今までの旅路において「略奪者」を正当防衛として殺害してきたのとはわけが違った。「ジョエル」が殺したのは世界を救おうとする善人達であり、そしてこの世界に生存してる全ての人間達だった。

このエンドを快く思わない人も多かっただろう。僕も普段なら一切納得が行かなかったように思う。

しかしこのとき僕と「ジョエル」の気持ちは同じだった。ファイアフライのアジトに向かう道中、レンズ越しに見続けた「エリー」に僕は父親が娘に対して覚える愛情に近い感情が芽生え始めていた。それは一年近くになる長い旅路をかけて「ジョエル」が「エリー」に対して抱いた感情と同一種の物だったと思う。

 

 

 

 

 The Last of Usと僕の関係は「Not for me」に帰結するはずだった。しかしたった一つの要素がその評価を180度変えた。

 カメラモードという要素を開発者が何を考えて導入したのかは知らない。恐らく作品への没入度に一切関係がないような意図だろう。

 けれど僕は、このゲームに満点に限りなく近い点数を与えたい。

 それは何故か? このゲームは愛によって紡がれた作品であり、このゲームはその愛に僕を共感させることに成功したからである。

 

 

 

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アーサーが死に、ジョーカーが生まれ、そして狂気のヴィランであるジョーカーは死んだ。

 

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世間のムーヴメントからは若干遅ればせながらも『ジョーカー』を観てきた。

純粋に、良い映画だったと思う。少なくとも公開後数日間オタク達がSNSで騒いでいた『これは危険な映画だ』というような空気は作品からは感じられなかった。いつだってオタクは作品への熱意を良くも悪くも過剰に吹聴して回るものだ。

しかしながら世間のオタク達が「危険な映画だ」と感じたことも、そして僕が感じなかったことも結局の所「主観」に寄るものでしかない。

そう、これこそが本作のテーマだ。誰がなんと思おうと自分の人生を喜劇だと思ったのであればそれは自分にとって喜劇だし、悲劇だと思ったら悲劇なのだ。誰が何と言おうと関係はない。他人の言葉や定型文を用いて自己を表現したり、作品への感想を安直に述べがちな今にむしろ必要な映画だったと僕は思う。

そういう意味ではやはり良い映画だった。そういう意味では。

 

 

 

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本作は主人公である売れない芸人志望のピエロ、アーサー・フレックがいかにして狂気のヴィランであるジョーカーになったのかという過程を描く作品である。

二時間という尺をかけて、アーサーは様々な物に裏切られていく。同僚のピエロ、世間、社会、母親、空想上の恋人、枚挙にいとまがない程だ。

しかしながら作中においてアーサーは否定されるだけではない。肯定された瞬間もある。ピエロ姿で三人の裕福層の会社員を地下鉄で射殺したときだ。

このとき、ゴッサムシティの貧困層はこのピエロ姿の殺人者をヒーローだと祀り上げた。それは、何をやってもダメな芸人のアーサーが初めて世間に”ウケた”瞬間だった。

この 素顔のアーサーとしての失墜と、ピエロ男としての成功体験がアーサーをジョーカーへと変える。

その後ジョーカーとなったアーサーは殺人を重ねる。生放送のテレビカメラの前で。何故か? それが”ウケる”からだ。

 

 

 

 

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僕はDCコミックスの世界に詳しいわけではないので、このジョーカーと『ダークナイト』等に登場するジョーカーが地続きのものなのかは分からない。

仮に違う世界線のジョーカーだとしよう。それでも、僕の『主観』から見ればそれはほぼ同じようなものだ。それが別の世界線のジョーカーだとしても、そのジョーカーにも似たような悲劇が、そして喜劇が用意されていたのだろうと考えてしまうからだ。

ダークナイト』においてもジョーカーはカメラの前で殺人を行ってみせる。その動機を推察することは当時は出来なかった。だからこそ彼は『狂気のヴィラン』であり最高にクールだった。

しかし、今では透けるようにそれが見えてしまう。その方が”ウケる”からだ。当時は貧困層のヒーローだった彼は今や、売れない一発屋芸人の様相をしていた。

 

この時点で狂気のヴィランであるジョーカーは死んだ、完全に。 

結局の所、ピエロの素顔なんてものは暴くべきではないのだ。この映画は破天荒を売りにしている芸人が「実は良い人」であることを暴露する悪質なテレビ番組のようなものだ。

 

 

 

映画『ジョーカー』は間違いなく成功するだろう。けれどその陰に素顔を白日の下に晒された一人のヴィランがいたことを忘れてはならない。

まあ、これも僕の『主観』に基づく感想に過ぎないのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

没入感の高い良作脱出ゲーム『Replica』について

 

『Replica』について

 

 

あなたは一台の携帯デバイスを片手に暗がりに立っている。

分かるのはこれがあなたの携帯電話ではないということだ。その証拠にあなたはこの携帯にパスワードを入力してロックを解除することが出来ない。

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パスワードという強固な壁を前になすすべもなく少し待っていると着信とメッセージが送られてくる。

 

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パスワードを解除すると、見知らぬ番号から電話が掛かってくる。

電話を取ると電話主は言う。

「君は国家安保の重要な役割を担っている」ということ。

「この任務をやり遂げれば君と家族は安全だ」ということ。

「この携帯の持ち主は17歳の青年で、君の隣の部屋で取り調べを受けているテロリストの物だ」ということ。

「君の任務はこのデバイスからテロリストを起訴する手がかりを見つけることだ」ということ。

そして最後に「君は今、自由民主主義国家の守護者になったんだ。」と伝えられると電話は切れる。

 

 

 

以上が『Replica』の冒頭である。タイトルにも書いてあるが、僕はこのゲームを良作脱出ゲームだと評価している。

しかし、これを読んだあなたはもしかしたら「これのどこか脱出ゲームなのか?」と思ったかもしれない。事実このゲームのストアページを見ると『インタラクティブ小説ゲーム』と書いてある。

けれど、このゲームが非常に良くできた脱出ゲームであることもまた事実である。

 

 

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『Replica』の基本画面。このホーム画面を起点に謎を解いてことになる。

Likeはfacebookをモチーフにしたアプリで、これを開くには当然ログインIDとパスワードが必要になる。

 

 

 

 

『Replica』がなぜ優れた”脱出ゲーム”なのか?

 

『Replica』が何故良作脱出ゲームなのかというのにはいくつか理由があるが、まずは基本的な脱出ゲームの流れについて話そうと思う。

 脱出ゲームの基本的な流れは以下の通りだ。まず、主人公がAという部屋にいる。Aの謎を解くとBという部屋が解放される。そこでさらにBの謎、あるいはAとBの複合した謎を解きCという部屋を解放する。これがゲームのクリアまで続く。気の利いた脱出ゲームであれば最後の最後になってAの部屋の謎が用いられるようなこともあるだろう。

この流れは『Replica』における謎ときの手順そのものである。『Replica』はプレイヤーの視点こそ変わらないものの、その携帯デバイスの中には無数のアプリ、あるいはロックされたファイルが存在している。現実と同じようにアプリを開くにもロックされたファイルを開くにもパスワードがいる。そうして開いた先には新たな謎、あるいは別のアプリの解放に用いるヒントが存在している。それは前述した脱出ゲームの流れと全く同じである。つまるところ『Replica』においては携帯デバイスこそが謎の洋館であり、アプリや隠しファイルは部屋であるということだ。それがこのゲームを解体したときに現れる本質的な部分である。

 

 

 

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謎の洋館にある謎のスケッチブックメモ

(画像はweb上で遊べる名作脱出ゲームELEMENTSより)

 

 

 

 しかし、この説明だけでは『Replica』が脱出ゲームであることの説明にはなっても”優れた”脱出ゲームであることの説明にはならない。

その説明のために、再び一般的な脱出ゲームについて話そうと思う。インターネット上に存在する脱出ゲームの殆どが謎の洋館や施設を舞台にしたものだ。それらはプレイヤーにその施設を脱出するための謎解きを提供すること自体が目的であり、それ以外に語られるストーリーは特にはない。であるからして、そこに存在する謎解きは必然的に脱出ゲームが脱出ゲームたるためだけに存在する記号的謎であり、それらに物語は無い。

だから僕たちはどれだけゲームに集中していたとしてもあるときふと我に返ってしまう瞬間がある。「なぜわざわざこんなわかりにくい暗号でパスワードをメモしているのか」「なぜそれが机の上に出しっぱなしにしてあるのか」「そもそもここはどこで、何故主人公はここにいるのだろうか」一つの綻びが我々の意識をゲームから追い出してしまう。

 

しかしながら『Replica』にはそれがない。『Replica』の目的は明確であり、我々の立場もまた明白であるからだ。そこに散りばめられた謎はただの記号的謎ではなく、物語的謎である。それこそが『Replica』を没入感の高い良作脱出ゲームに仕立て上げている本懐である。

 

 

 

 惜しむらくはこのゲームがマルチエンディング方式を取ってしまい、謎解きの構造が浅く広い形になってしまっていることだろう。

もしこれが一つ、或いは二つのエンディングに向かって深掘りしていくゲームだったのであれば良作の域を悠々と飛び越していったに違いない。

 

 
 

 

 
 
 
 
 

『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』はファンの期待を裏切った最低な作品だが、それでもファンに観て欲しい最高の映画だった

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ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』は人類史上稀に見る最低最悪の映画だった。

一人のドラクエファンとしてそう表現したい気持ちは分かる。確かに8/2に封を切られたこの作品を何も知らないまま観た人間は紛れもなく犠牲者だろう。けれどもそれ以降に「どうやら何かあるらしい」とこの映画に対して身構えながら鑑賞したもの達もが口を揃えて「この映画はクソだ。絶対に観に行くな」とSNSに書き込むのは些か大人げないと言わざるを得ない。

 

 

 

当記事では『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』について”僕がしても構わないと独断で判断したネタバレ”を含みながら本作の魅力について語る。

もし、あなたが世間の評価に流されドラクエファンでありながらも本作を絶対に観に行かないと固い決意をしているのであれば、この記事を読んでから判断して欲しい。あなたが本作に最低最悪のレッテルを貼り一生開かぬよう封をするのはそれからでも遅くないはずだ。

 

 

 

何故『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』はここまで非難の嵐を受けているのか

 

 

当然の事ながら世の中には面白くない映画など数えきれない程に存在する。テンポが悪い、画面が暗くて見えづらい、単純にセンスが感じられない。理由はたくさんだ。これらの映画は大抵面白くないが故に語られないという罰を受けてこの世から消えていく。

しかしながら本作に関しての観客の反応は異なる。怒りだ。何故そのような激情を皆が覚えるのか。その理由は多種多様だが一つだけハッキリしていることがある。本作が”純粋に面白くない映画”ではないということだ。先にも述べた通り単純に面白くない作品はただ単に語られないのだ。怒りを覚えるということは何らかのひっかかりがあるということである。

 

 

ここで一つ断り書きをさせて頂く。文頭に書いた”僕がしても構わないと独断で判断したネタバレ”というのは本作の批判部分の話である。

SNS等で散々騒がれているのでこれを読まれている皆さまは既に気づいているかと思うが、本作は物語の終盤にとんでもないどんでん返しがある。それがこの作品の評価を賛否両論(否の意見が圧倒的に多いが)へと推し進めている。

逆にそれ以外の本作の魅力については極力ネタバレなしで語り切りたいと思っている。僕が良いと思った部分を出来ればこれを読んでいる皆さんにも僕と同じように新鮮に感じて欲しいからだ。

 

 

さて、それでは本作のどんでん返しについて話をしよう。一言で述べるなら「本作はドラゴンクエストVの映画ではなかった」ということになる。

一体どういうことなのか? 筋道を立てて話をする。

映画は多少の改変や割愛した部分がありながらもドラクエVのシナリオ通り表世界のラスダンである大神殿へと向かう。

本来魔界のエビルマウンテンでゲマとの最終決戦を行うシナリオだが本作ではこの大神殿が最終舞台となる。主人公は息子と協力しゲマを倒すと、天空の剣を魔界の門へと投げ込む。本作の設定では天空の剣を魔界の門へと投げ込むと門を閉じれる設定となっているのだ。

事件はそこで起きる。主人公以外の全ての物体の時間が止まるのだ。物も他のキャラクター達も一切動かなくなる。

そこに突然謎のキャラクター(以下白ハゲとしよう。白ハゲなので)が現れる。

白ハゲは自分がハッカーによって送り込まれたウイルスであり、この世界がプログラムに過ぎないと話す。

そして主人公の記憶を呼び覚まし、シーンは主人公の回想へと移る。自分がドラゴンクエストV追体験出来るVRアトラクションに入っていく姿。アトラクションの監視員と「このゲームをプレイ中は一切自分の記憶がなくなり作品に没頭出来る」と会話する姿。

即ちこれまで僕らが見せられていた映画は『ドラクエV』ではなく『この映画の主人公がドラクエV追体験VRアトラクションをプレイしていた様』だったのである。

白ハゲは「私を作ったハッカーはこう言いたいのだろう。『早く大人になれ』と」と口にしてVR世界を全て破壊しようとする。

 成す術もなくやられそうになる主人公だがスライムの姿をしたアンチウイルスソフトが現れウイルス対策プログラムを主人公に託す。

主人公に託されたプログラムはロトの剣の形となる。走馬灯のようにドラクエVをプレイした思い出が脳内を駆け巡りながら「誰になんと言われようとゲームキャラクターも僕にとって現実の一つだ」という想いを胸に白ハゲを倒す。

瞬間、VR世界は元に戻りイレギュラーによって現実の主人公の記憶を持ったままという不具合を抱えたままではあるが、無事VRアトラクションは終わりを迎える。

 

 

 

 

 いやね! 僕は確かに「文句を言うな」と。「批判ばっかすんな」と。言いましたけどね、これだけは言わせて欲しい。「このシーン、間近でセンスがねーんだよ!」

僕はねこういうメタフィクション系統の作品、大好きなんですよ。ゲームは大好きだし。ゲームも現実の一部だと考えてる。でもとにかくセンスがない。このやり取りがもう死ぬほど寒い。実際見て貰ったらわかるんだけど、もう本当に鳥肌立つから。

まあでも、ここで「じゃあどうしたらよかったのか?」みたいな話はしません。それはこの記事の本懐ではないので。なんならこのクソ寒いやり取りが”怒り”を生み出したのかって言われるとそうじゃないとも思うので。

 

 

じゃあ何が怒りを生み出したのか? っていう話なんですよ。それは僕個人が思うにこの作品が”本当に面白かったから”だと思うんですよ。少なくともこのクソ寒いやり取りが行われるまでは。

そうして人間は考えてしまうわけです。本来、こんな余計な設定(と今回は言わせて頂きます)を付け加えずにこの映画が完結していたならば、どんなに素晴らしかっただろうと。本来得れたはずの面白さとの落差にしか目が行かないわけです。

僕はこの映画の点数を100点満点中70点としました。実際平均で点数を出したときにこれは妥当な数字だと思います。だってラスト以外最高に面白いんだから。

 なんならこのスコアの付け方もラスト前まで100点満点中270点だったけどラストで200点マイナスした、みたいなそんな感じの付け方なんですよ! 確かにあのラストはマイナス200点をつけたくなるくらい酷い。でもそれでそれまでの全てを無かったかのように、この映画がドラクエのことは一切分かってないみたいな書き方をするのは違うと思うんです。

本当にいいんですよ、この映画。まず映画館ですぎやまこういちの曲が流れるだけで5億点くらい渡したくなるし、ネタバレ極力したくないとか言いつつもう言いたくなったんでバンバンしますけど、リュカがヘタレキャラなのもすごくいい。だってあいつ原作でもルイーダの酒場に預けられないから仕方なく馬車の中でベホイミ唱えてるだけじゃないですか! ゲームやっててもピエールとブラウニーとゴレムスがずっと前線にいるし、めっちゃ俺の想像通りなんですよね。

ビアンカはシリーズのビアンカの中でも屈指の可愛さだし、フローラもものすっっっごくいいんですよ。

そして数多のモンスター達。これはネタバレでもなんでもないんですけど、作中に出てくるギガンテスにね、ちょっと泣きそうになっちゃんですよ。

ドラクエ11をやってる時に「俺、なんでこんな面白くないゲームやってんだろ」ってちょっと思ったんですよね。面白いアクションRPGがいっぱいある中で、ドラクエ11は言ってしまえばコマンド選択式の時代遅れのRPGなわけじゃないですか。

それでも最後までプレイして、なんでここまでやったのか理由は結局わからずじまいだったんですけど、この映画観てて心の底からわかったんですよ。このモンスター達のいるゲームが僕はしたいんだなぁって。ここまでくると老害だと思うし、それは承知してるんですけどね。そこまで感じることはないにしても、ラスト以外の部分は本当に面白いし、あれは出来れば映画館で味わってほしいと思う。確かにクソ映画かもしれないけど、僕は自信を持ってドラクエファンにこの映画を薦めたい。

 

ただラストで、もう喩えるなら「最高の映画を観終えた」と思ったところにテロリストがやってきて10分くらい恐怖体験を味合わされる、みたいなことが起こるんで、それはちょっと覚悟して貰いたい。結果この映画のことを嫌いになっても別にいいから! 別にこの作品を評価してくれなんて微塵も思ってねぇから! ただドラクエファンにドラクエの映像と音楽を劇場で楽しんでもらいたい、僕の想いはそれだけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

平成最後のserial experiments lainである『her story』について話す

 

 

1998年に発売された『serial experiments lain』に課せられた使命はゲームとプレイヤーの間に立ちはだかる壁を極限まで薄くすることだった。そして開発者はそれを見事やってのけた。極めて単純な方法で。彼らは我々の脳をハックしたのだ。

serial experiments lain』はそれ自体では何も意味も為さないノイズの断片をまき散らすと、それをプレイヤーの脳内で一つの物語として再構築させた。それは紛れもなく現実への介入であり、侵食に他ならない。そうして脳をハックされた我々は『lain』を神として崇め、今もワイヤードの深淵を彷徨っている。

 

 

 

 

『her story』というゲームの話をする。

話は変わるが『her story』というゲームについての話をする。プレイヤーは(理由は分からないが)ある女性が関わった事件について調べている。しかしながら我々が利用出来るのは警察の取り調べの様子を記録したデータベースしかない。

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このデータベースはキーワードを入力するとそれに該当する発言を行ったビデオが検索出来るシステムになっている。

ゲーム開始時は上記の画像のように「殺人」というワードが検索欄にすでに入力されている。

それをいくつか観ていくと「サイモン」という人名を話す映像が見つかるだろう。

 

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「サイモン」とはいったい誰なのか? なぜ殺されているのか? この女性との関係はなんなのか?

そういった疑問は次に「サイモン」というワードを検索して出てきた映像を見れば解決する。しなくてもそこには次に進むためのワードが用意されているだろう。それを順繰りに追っていけば我々が何故このデータベースを見ているのか? という疑問が断片的に見えてくるようになる。

 

 

このゲームのエンディングは一定数のビデオを視聴し終えるとクレジットが流れるという非常に簡素なものになっている。

『her story』が我々に与えてくれるものは断片的な事情聴取映像以外に何もない。しかし、そこからプレイヤーの頭の中で再構築される物語は『serial experiments lain』が最高のゲームであったのと同じように最高だ。これ以上無いほどにグラフィックが進化を遂げている昨今のゲームシーンだが、本作のようにゲームという枠を飛び越えて行われる原体験に勝るリアリティはないと僕は考えている。

ノベルゲームを愛するプレイヤーはもちろんのこと、それ以外のプレイヤーにも手に取ってほしい一作だ。

 

 

 

 

 

 

 

『Glare1more』プレイ感想

 

 

 

『Glare1more』はある日、とある企業のアンケートに答えた粗品としてナノロボット『グレア』が届けられた所から物語が始まる。

プレイヤーは突然届けられたにも関わらず、プレイヤーに一切靡かないこのロボットと会話を通じて少しずつ交流を深めていくことになる。いわばギャルゲージャンルのゲームだ。

 

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『Glare1more』は非常にインタラクティブなゲームだ。

インタラクティブとは『対話』あるいは『双方性』を意味する単語だ。ゲームジャンルとしてはメタフィクション系のゲームを表す単語として使用される傾向にある。本来プレイヤーとゲーム内のキャラクターは一方向からのコミュニケーションしか得られないが、メタフィクションを孕んだゲームは疑似的にその壁を破壊することが可能だからである。『oneshot』におけるプレイヤーがPCの外で操作している人間であるということを知覚しているnikoや、『UnderTale』におけるSansのゲームの世界外に繰り返しこの世界をリセットしている存在がいることを示唆する発言はプレイヤーに疑似的な『インタラクティブ』な体験を与えるというわけだ。

しかしながら『Glare1more』はけしてメタフィクション系統の作品ではない。そのシナリオはきちんとゲーム内の主人公であるプレイヤーとグレアの中で完結し、PCモニターを飛び越えて我々に干渉してくることなどは一切ない。それでも『Glare1more』は非常にインタラクティブなゲームだと言える。

その理由はゲームシステムにある。『Glare1more』は『コマンド入力方式』を採用しているからだ。

 

 

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『コマンド入力方式』が『コマンド選択方式』より劣っているのは歴史が証明しているし、それを否定するつもりは当然僕にもない。しかしながらプレイヤーとゲームのインタラクティブな関係性を保つ上で『コマンド入力方式』は優れた表現方法だと僕は考えている。

近年では『コマンド入力方式』が採用されているゲームとして『her story』があるが、あのゲーム性をコマンド選択方式では再現することが難しいし、仮に再現出来たとしてもあのゲーム独特の没入感は失われてしまうだろう。

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ビデオ映像の聴取映像から発せられる会話をヒントにキーワードを入力し

警察のデータベース内を探って一つの事件を辿る名作ADV『her story』

 

 

 

 

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しかしながら『Glare1more』が『コマンド入力方式』にカッチリとハマっていること言われると少々怪しい部分もある。というのもこのゲームのシナリオが進むにつれて世界の謎が徐々に明らかになっていくのだが、その謎を握っているのは主人公だからである。そのため単語を入力し、シナリオを進め、世界の謎に少しずつ迫っていくのも我々だし、その秘密を握っているのも我々(主人公)だという構図には少しばかり違和感を覚える。

 

 

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けれど、そんな些細なことが気にならないくらいグレアは可愛いし、えっちなのでこのゲームはそれでよいのだと思う。

 

ゲームボリュームとしては通常シナリオと後日談(エイプリルフール企画のネタらしいがギャグシナリオとかではなかった)を両方合わせても二時間弱で終わるレベルの内容だ。

またこのゲームの特徴としてBGM(効果音等は存在する)がないことが挙げられるが、それを効果的に利用した演出を用意しているのでBGMが無いからといって自分好みの音楽を流したりはしないことを推奨する。個人的には後日談が演出、シナリオ共に好みでこんな感じの話を定期的に有料DLCで投下してくれたらうれしいのになぁと思ったりした。



 

 

 

 

因みに本稿で既に触れたがこのゲームの『コマンド入力方式』を気に入った方は『Her story』のプレイを強くオススメする。コマンド入力方式と不気味な没入感のマッチしたゲーム性に思わず舌鼓を打つはずだ。

 

fgctcgetc.hatenablog.com

 

 

 

サイコパス謎解きゲーム『Rusty Lake』シリーズのすすめ

『Rusty Lake』シリーズは狂気に満ちたポイントクリック型の謎解きアドベンチャーゲームだ。

ゲームシステムはシンプルでマウスクリックによって手に入ったアイテムを駆使して状況を打破し、ストーリーを進めていくという至って普通の謎解きゲームとなっている。

では『Rusty Lake』の何が狂気に満ちているのか。何が魅力的なのか。本稿ではsteamで配信中の3作のうちの『Rusty Lake Hotel』と『Rusty Lake: Roots』の2作を紹介すると共に本作の魅力の根幹を伝えて行ければと思う。

 

 

 

Rusty Lake Hotel

 

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『Rusty Lake Hotel』ではプレイヤーはホテルマンとなり奇怪な見た目をした宿泊客の相手をすることになる。

このゲームはsteamで配信されているシリーズの中で唯一日本語に対応していない。

だからといって敬遠しないで欲しい。むしろ僕はこのゲームは一切何を言っているのか分からない方が異世界に迷い込んだような不気味さをかえって良く味わえるような気がしている。実際に僕は英語がからっきしだめで本作のプレイ中も所々分かる単語があれど、殆どの文章を読むことが出来なかった。それでもクリアに辿り着くことが出来たし、少なくともゲームプレイに支障はないと思う。

 

 

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我儘な宿泊客に『ブラッディーマリー』を用意しろ。とすごまれたので客の角をナイフで切って血液を採取している所。角切ってるのを許してるのもよくわからないし、ブラッディーマリーに血液使うのもよくわからない。こうした常軌を逸脱した行為の連続で、段々と倫理観と常識の平衡感覚が失われていく。

 

 

プレイヤーはホテルマンなので基本的には宿泊客の相手をし、顧客の要求に答えていくことになる。しかしながらホラーゲームの定番のように一人、また一人と客の姿が消えていく。周りが何を言っているのか一切分からなくても、”何故宿泊客がいなくなったのか”は実際にゲームをプレイしてもらえれば一目で分かることだろう。

 

 

 

 

 

 

Rusty Lake: Roots

 

『Rusty Lake: Roots』は上記のHotelの続編にあたるゲームだ。いかにしてあの奇怪なホテルが誕生したのかといった”ルーツ”を一つの家系図を辿って間接的に知ることが出来る。

このゲームはHotelのように奇怪な見た目をした人物達を相手にすることはないが、前作以上の狂気を相手にすることになる。例えとして一つあげると『想いを寄せてる女性に薔薇を上げたら鼻血を出したのでハンカチで拭い、その血でカラスの羽根を使って恋文を書く』といった具合だ。

 

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※インクではなく血液です。

 

こんなものは序の口である。行っていることの残虐性や暴力性としては前作のhotelの方が高いのだが、生身の人間が行っているというビジュアル的観点から見ると本作の方がショックを受ける可能性が高いかもしれない。

 

 

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突然現れた男性の死体。脇腹の部分に矢印のようなマークがついているが… 

 

 

 

『Rusty Lake』シリーズの面白さについて

 

 

本来ポイントクリック式の謎解きゲームにおいて最も楽しさを覚える部分は「アハ体験」にあると僕は考えている。アハ体験とは簡単に言えば「あっ!」という閃きのことで「今まで分からなかったことが分かるようになる体験」のことである。パズルゲームや謎解きゲームはこういった体験を誘発させる場であるといえると思う。

例えば『Gorogoa』なんかは「アハ体験」の連続でプレイヤーの体験を満たすゲームであるといえる。

 

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しかしながら『Rusty Lake』シリーズは違う。それがこのゲームの面白く、また狂気に満ちた部分だ。

『Rusty Lake』シリーズで最もプレイヤーが楽しさを味わう部分は「背徳感」にあると僕は考える。上記の通り殆どのパズルゲームや謎解きゲームは「解けなかった問題が解けた」ときの爽快感にある。それは「気づけた!」という感情だ。しかしながら『Rusty Lake』シリーズはプレイしていくうちに謎を解いても「気づけた!」という感情に至っていないことに気が付くと思う。このゲームの場合謎を解いた後の感情は「気づいてしまった」なのである。

 

それはいったいどういうことなのか? 

普段、僕は自分の声など気持ち悪いし1mmも聞きたくない人間なのだけれど、僕が『Rusty Lake: Roots』を実況配信していた際にこのゲームの魅力を表すのに最も相応しい動画が取れてしまったので参考までにここに掲載させて頂く。

 

youtu.be

 

 

この動画にこのゲームの魅力が全て詰まっているように思う。

特に胎盤を犬に食べさせるシーンはこのゲームをプレイし続けた人間なら今までの経験則から瞬時に気が付いてしまうのだ。

「なんで犬に胎盤食わせたら眠って鍵が取れるようになるの?」なんて知ったことではない。ただ瞬間的に「犬に胎盤を食わせたら鍵が取れる」と理解するだけだ。そうして気が付いてしまった自分にある種の自己嫌悪を覚える。

 

「このゲームの作者、サイコパスだろ…」と若干ひきながらゲームをプレイしていた自分がいつの間にか作者の考えを無意識に理解してしまう。プレイヤー自身がこのゲームのルールに順応し、サイコパスになってしまう。このゲームの素晴らしいところはそこにある。